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ロングインタビュー

IL BUONOメンバーの熱い思いが語られる。

三木 佑真 Yuma Miki

ぼくの家は、親子4代、ずっと表現に携わる仕事をしているということになります。

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―東京生まれの名古屋育ち、でも本籍は愛媛県?

はい。ぼくの曽祖父が愛媛県生まれで、それでずっと三木家の本籍は愛媛になっています。ぼくが東京で生まれたのは、母が東京生まれの東京育ちで、実家に帰ってぼくを産んだので、それで、生まれたのは東京の新宿なんです。でも、幼い頃から大学に入学するまで、ずっと名古屋に住んでいたので、出身は名古屋になります。ちなみに愛媛にはこれまで2回ぐらいしか行ってないです。

 

それで何でずっと三木家の本籍が愛媛かというと、実は、ぼくの曽祖父が、三木滋人(しげと)という人で、大正から昭和にかけて、ずっと撮影技師をやっていた人なんですが、今でいうところのスターカメラマンの先駆け的な存在で、溝口健二やマキノ省三、その子のマキノ雅弘など、当時、日本を代表する映画監督とタッグを組んで、様々な映画を撮影した人なんです。おそらく曽祖父の出身地ということで、先祖代々、本籍地を変えていないのだと思います。曽祖父は太秦にある東映京都撮影所が長かったので、ぼくの祖父は京都生まれで、シンセサイザーを使って作曲をしていました。作曲家ですね。そして、その子供だったぼくの父は、やはり曽祖父の影響で映像ディレクターになって、今は名古屋

で映像関係の仕事をしています。ですからぼくの家は親子4代ずっと表現に携わる仕事をしているということになります。

―三木家は、親子4代ずっとアーティストなんですね。今の音楽活動に影響を受けたことがあったら教えてください。

やはり祖父の影響が大きですね。なので両親は早くからぼくにピアノを学ばせました。3歳から中学までずっとピアノをやっていました。今は弾けないですけど(笑)。ピアノだけじゃなくて、小学校の頃には毎日運動もしていました。バスケットクラブやスイミングスクールに入って、学校では陸上もやっていましたし、少林寺拳法も習っていました。幼い頃から中学校ぐらいまでは、毎日ほぼ習い事をしていましたね(笑)。

 

―少林寺拳法をやっていたんですか?

はい。家の近くにコミュニティーセンターがあって、見学に行ったら、一気にハマりました。小学校から中学校まで、ずっとやっていました。有段者です。少林寺拳法は、空手や他の格闘技と違って、あくまで「護身術」なんです。相手に危害を加えないことが第一と考えられていて、こちら側に危害を加えようと向かってきた相手に対して、その相手を傷つけないように制圧する、という護身術なんです。そこにすごく魅力を感じて、ずっと習っていました。とにかく「防御」なんですよ。相手にいきなり掴まれたら、すぐに関節を決めるとか、自分や自分の親しい人を守るという姿勢が基本です。だから、自分からは行かないんです。というか、ぼくからは「行けない」というのが正しい表現かもしれないですね(笑)。

 

―棒や刀を使った香港映画で「少林寺」という映画があった気がしますが、護身術なんですか?

中国の武術である「少林拳」と、日本の武道である「少林寺拳法」は全く違います。ブルース・リーは幼い頃から少林拳や太極拳を習って、自分の武術を創始した人ですが、あれは日本の少林寺拳法とは全く違います。混同されてますね(笑)。よく誤解されたりします。少林寺拳法やっているから、ケンカが強いの?とか(笑)。何度も言いますが「護身術」ですから、戦わないんですよ。

パヴァロッティに出会ってしまったんです。もう、それは衝撃でした。

―そもそも音楽大学に進学しようとか、オペラ歌手になろうと思ったきっかっけは何ですか?

高校2年の当時、フィギアスケートが大流行したんです。荒川静香さんです。荒川さんのフィギアのバックで流れていた音楽が、オペラ「トゥーランドット」の『誰も寝てはならぬ』という楽曲だったんです。ぼくは、荒川さんではなくて、その曲に興味が湧いてきまして……父がたくさんクラシックのCDを所有していたので、それで、初めて真剣にオペラを聴いてみたら、次第に、その音楽の中で歌う、オペラ歌手の声に惹かれて行ったんです。人間の声なのに、何でこんなに凄い声が出せるんだろうって。自分もこんな声が出るのかな?という最初は好奇心でした。もちろん、その当時は、オペラ歌手とか、声楽というもの自体知らなかったので、当時、習っていたピアノの先生に色々と教えてもらっているうちに、パヴァロッティに出会ってしまったんです。もう、それは衝撃でした。

 

―パヴァロッティのどんなところに惹かれたのですか?

ポップスは中学生の自分でも、いろいろ聴いていたんですけど、パヴァロッティの声は、それまで自分が聴いたことのない音楽というか……全く違う声の響きというか、音の深みというか……こんな声を出す人間がこの世の中に存在するんだと。とにかく強く惹かれましたね。自分も練習すれば、いつかこんな声が出るのかなと、漠然とですが、「こんな声を出してみたい!」とその時、思ってしまったんですよね。パヴァロッティみたいな声をとにかく出したい!という想いに駆られてしまって……それで、声楽家を目指すようになりました。もう、高校2年生の冬には、東京の国立(くにたち)音楽大学の講習会を受けに行っていました(笑)。今思えば、うちは祖父も音楽をやっていたので、両親の反対が一切無かったので、その点、父も母も応援してくれたのがすごく大きかったです。それと3歳の頃からずっとピアノをやっていたので、楽譜も読めていたのも大きかったです。

 

―音楽大学に入学してからはどうでしたか?

実は、地元の名古屋で音大の受験勉強をしていた頃の先生には、君はバリトンだと言われ、国立音楽大学の声楽科を入学した時も、バリトンで受験したんです。でも、国立音大に入学して半年ぐらい経った頃に、いきなり担当教授に呼びだれて、「君はテノールだよ!」って言われまして。それからテノールに転向したんです。つまり、いきなりその日から、自分は低い声の人から高い声の人になったんです。でも、パヴァロッティに憧れていたので、その時は逆に嬉しかったですね。変声期は中学生の頃に終わっていたんですけれども、とにかく、20歳そこそこで、いきなり高い声になったわけです(笑)。それと、ぼくの大学では、声楽科の生徒は全員、自分の歌に点数をつけられていたので、とにかく良い点数を取ってやろう!って、それが非常に励みになって、それで歌うことがもっと楽しくなっていきました。それで、もっと歌を勉強したい!もっと深く知りたい!歌を極めたい!って、そうなっていきまして、卒業と同時にそのまま大学院に進学しました。

自分は本当にTHE LEGENDのメンバーに加入したのか?

よくわからなかったです(笑)。

―大学院を卒業した後は?

やっぱり本格的にオペラ歌手になるために、卒業後はすぐに「東京二期会」に入って、二期会の「予科」、「本科」と進んで最後に「マスタークラス」に行きました。当時、マスタークラスは30人だけの定員で、試験もあったんで、もう、大学院の後もずっと歌の勉強ばかりでしたね(笑)。それが終わって、やっとオペラに出演できたり、人の紹介で合唱指導をしたり、アニメのサントラのレコーディングの仕事をもらったりして、何とかやっていました。それが30歳ぐらいまで続きました。

 

―30歳の時に日本初の男声オペラユニットTHE LEGENDの公開オーディーションに合格して、昨年までの4年間グループに在籍していたわけですが、なぜオーディションを受けようと思ったのですか?

THE LEGENDの存在は以前から知っていました。大学の先輩たちのグループでもあったので……それで公開オーディションを受けてみようと思ったんです。でも、まさか、オーディションの当日が、コロナで、初めての「緊急事態宣言」の日と重なってしまって……正直、あの日は、日本全体が異常な雰囲気でしたので、今でもあの日のことは良く覚えています。オーディション会場が、銀座のヤマハホールだったのですが、銀座の街に人が一人もいないんですよ。本当に一人もいないんです。それにまず驚きました。

オーディションを受けて良いのだろうか?と。それはもう、違う意味で非常に緊張しました。まだ、コロナがどんなウィルスで、人体にどんな危害を及ぼすのか、誰も理解できない時期でしたから、とにかく、オーディション会場では、みんな誰も喋らない。無観客のコンサートホールで、参加者一人ひとりが歌うんですけど、とにかく、すごい緊張感に包まれていました。

やってみないと、わからないんです。

それが同性グループ歌手の難しさです。

―THE LEGENDオーディションで、最年少合格だったわけですが、当時はどんな心境でしたか?

心境も何も、せっかくオーディションに合格したのに、世界全体が先の見えないコロナになって、歌手活動ができなくなってしまって。自分は本当にTHE LEGENDのメンバーに加入したのか、よくわからなかったです(笑)。2年目でやっと少しずつですが活動ができるようになって……でも、どういう感じで音楽を作り、どうしていけば自分がTHE LEGENDのサウンドの一部になれるのか、みたいなところで、最初はとても苦労しました。でも、コロナ禍だったので、ほとんど一人でいる時間が長かったんですが、その孤独の中でも、グループで同じ目標を持って、時間を共有しながらやっていけたということが、ぼくにとって非常に励みになりました。メンバーも全員先輩でしたから、とても心強く、楽しくもありました。本当に救われた部分がありました。

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―また新加入したTHE LEGENDというグループでは、どんな苦労がありましたか? 

やっぱり、自分の歌手としての基準というか、自分なりの立ち位置というか、歌手なら誰でもあると思うんですが……でも、グループでやると、求められるものが、いつもの自分とは違って、それが非常に大変でした。つまり、ソリストなら自分の技術を磨いていけばそれで良いわけなんですが、グループ歌手となると全体のサウンドとか、カラーみたいなものが自然にできるんです。そこに合わせるための努力というものが非常に必要になってくるんです。とにかく、同じサウンドを出さないといけない、という……感情の作り方なんかも求められる。統一しないといけない部分がたくさん出てくるんですよ。たとえば、男声と女声の二重唱だったら、男女それぞれの解釈で歌えます。それぞれの声を出し合って、ある程度自由に歌えるんです。また合唱であれば、みんなが同じ方向で、音を均一にさせて同じ解釈で歌えます。

でも、THE LEGENDというグループは、合唱ではないし、性別も一緒の「男声オペラユニット」という、特殊なグループでしたので、それぞれがまずソリストなんですよ。それでいて、歌に対しては同じ解釈をしなくてはならない。しかも、それぞれがそこに個性を出さなければいけない。だから、みんなで揃えて歌うのが正解なのか? そうではなくて、ばらけて歌うのが正解なのか? 誰もさっぱりわからないんですよ(笑)。みんな手探りの中で、何度も稽古をしながら、歌を作っていくんです。こっちが正解だ!あっちが正解だ!というように。そうしないとグルーブ感が出ないんです。だから、もう、何が正解なのか、全くわからなくなってくるんです。つまり、何が個性になっているのか?は、やってみないと、わからないんです。それが同性グループ歌手の難しさです。

正直、ぼくが今まで出会ったことのない人たちばかりでした。

極端に言うと、宇宙人のような(笑)。

―THE LEGENDの活動を通じて、勉強になったことはありますか?

一言で言うのは難しいんですけど……とにかくTHE LEGENDは、メンバー1人ひとりの個性が強すぎて(笑)……正直、ぼくが今まで出会ったことのない人たちばかりでした。極端に言うと、宇宙人のような(笑)。良くも悪くも自分と全く違う価値観を持った人たちの集まりで。びっくりする事が多すぎて……自分も含めメンバーみんなだと思うのですが、どこか、めちゃくちゃな部分があって、最初は本当に戸惑いましたね。本当に、この人は嫌だ、と思ったこともあったのですが、次第にメンバーと深く付き合っていくうちに、みんな、それぞれに尊敬し、理解できる部分もあって、次第に「そういう考え方もあるんだ」とか、「この人の、この能力がグループを支えているんだ」とか、毎日が気付きの連続でしたね。ぼくは、THE LEGENDのメンバーになったことで、自分の狭い価値観から抜け出して、多角的に人を見ることができるようになり、成長することができました。

 

―そんなTHE LEGENDも、昨年、2024年いっぱいで活動中止を決断した訳ですが、その時の様子や経緯など教えてもらえますか? 

2023年の5月にメンバーだった菅原浩史さんが亡くなってしまって……オリジナル楽曲はもちろん、THE LEGENDの楽曲のほとんどの歌い出しが浩史さんだったので、それはもう、メインヴォーカルが居なくなってしまった感じで……それからのお客さんの増減が、ステージに立つと目に見えてわかるんです。

浩史さんを失って、THE LEGENDは、歌の軸というか、大きな土台を失ったというか、グループの技術的な面まで失ってしまったというか……そんな中でも、みんな何とか新しいサウンドを作っていこうという気概もあったんですが……。でも、結成当初のメンバーは5人で、ぼくはずっと後からオーディションで入ってきたメンバーだったので、オリジナルメンバーの5人にとっては、ぼくなんかより非常にショックを受けていましたので、これからどうなるんだろう……みたいな話し合いは、浩史さんが亡くなってからずっとありました。みんなのモチベーションが下がって行ったわけではないんですが、昨年の夏あたりから、ひとまず活動を休止しよう、みたいな流れが出始めて、何度も話し合いを持ちました。ぼくはメンバーの中でも、何とか活動を継続できないかと、ずっと主張してきた方なんですが、やはり結成当初のメンバーの気持ちとしては、オリジナルメンバーの一人がかけてしまったことで、もう、それは違う、という気持ちが非常に強かったんだと思います。浩史さんはオリジナルメンバーで、グループの中でも特別な存在でしたから……THE LEGENDの要だった人なので……。

 

でも、今思うと、結局は、音楽に対する熱量だったとぼくは思うんです。やっぱり浩史さんを失って、グループとして、グループの音楽に対する情熱を失ってしまった、ということだと思うんです。メンバー間でグループの音楽が頑張れなくなった、というか、最後は、頑張りたいけど頑張れない、という辛い日々でした。

IL BUONOは、オペラ、ミュージカル、ポップスのちょうど真ん中にいるような

グループなんです(笑)。

―THE LEGENDが活動中止となって、すぐにIL BUONOに合流し、参加しようと思ったのはなぜですか?

ぼくはTHE LEGENDは途中参加で、グループ歌手としても、すごくやり残していることが沢山あったので、とにかく、事務所で新しいグループを検討しているという話を聞いて、すぐにでも参加して、お客さんの前で早く歌いたいという気持ちが非常に強かったです。

 

―THE LEGENDはオペラユニットで、ノーマイクで、あくまで声楽の技術を駆使したグループでした。

しかし、IL BUONOはクラシカル・クロスオーバーというジャンルを明確にして、声楽の技術だけでなく、マイク技術やポップスの歌唱力も求めるハイブリットなグループです。その点においてどう考えていますか?

IL BUONOは、オペラ、ミュージカル、ポップスのちょうど真ん中にいるようなグループなんです(笑)。

ぼくはTHE LEGENDでは最年少だったけど、このグループでは、川崎くんと同じ歳で、最年長で、しかも3人の中で唯一グループ歌手の経験もある。自分が引っ張ってゆくというか、自分が今までの経験の中で、できる引っ張り方をしようと常に努力しています。グループの日常的なことから、ステージングとか……とにかくTHE LEGENDの経験がすごく生かされているグループです。ぼく自身、THE LEGENDの良かったことは積極的にこのグループに取り入れていこうと思っています。だから今は、4年間という短い間でしたが、THE LEGENDのメンバーでいたことが本当に良かったというか、すごく役立っています。

 ただ、THE LEGENDはマイクに左右されないグループでしたので……そもそも、オペラというか、声楽というものは、マイクができるずっと以前の音楽ですから。でも、IL BUONOは、マイクで歌うことで、音楽の可能性を広げたいというグループなんです。そこがTHE LEGENDとは大きく違います。今の時代は、マイクを使わないと広がらないというか、知らない人に訴求できない時代になっています。テレビやラジオだけでなく、SNSやYouTubeといったメディアも生まれ、声楽家ですら昔よりも頻繁にマイクを通して歌を歌うことを求められる時代になってきています。マイクでしかできない表現もたくさんありますし、マイクでないと歌を聴けない会場もあります。つまり、ぼくたちIL BUONOが、クラシックという限界を一歩飛び越えたところに行くためには、そして、今の時代の音楽環境に対応するためには、マイクは避けて通れなくなりました。

 

でも、そうかといって、ぼくたち3人には、声楽の技術を長く学んできたという自負があります。だから、ぼくたちがマイクを使うということは、クラシックとポップスを融合したクラシカル・クロスオーバーを極めるグループになる、という選択肢しかありませんでした。今までの技術を捨てて、ポップスだけやるのは、今までのぼくたちの人生を否定することになってしまいますから(笑)。それはできません。

 

―THE LEGENDの時のように、オペラ歌手がマイクを使うということではなく、IL BUONOという新しいクラシカル・クロスオーバーのグループを結成し、マイクを駆使して歌うということに、戸惑いはありましたか?

正直に言っていいですか? はい(笑)。もう、全然違うものでしたね(笑)。やっぱり、マイク乗りが良い声と、マイク乗りが悪い声って、あるんです。厳密に言うと、オペラの発声の場合は、もちろん肉体や声帯もそうですが、周りの空間や空気の響き、ホールの反響板なんかを使って声の個性や広がりを出します。そのため、マイクで歌うと、それは余計な要素になってしまう。時にそれは、余計な雑音になってしまったり、マイクの乗りが非常に悪くなってしまったりするんです。もちろん、自分が今までやってきたクラシックの技術が生かせる部分もあるんですけど、真逆のことになってしまうこともあって、それが非常に難しいです。そもそも、声楽とはマイクのなかった時代の技術ですから(笑)。特に声を飛ばす技術というのは、ある意味、声楽の世界では「正義」みたいなところがあるんです。でも、それをマイクでやってしまうと、声が乗らない(笑)。それはもう、ただ、ただ、うるさいだけになってしまう(笑)。

 

THE LEGENDの時は「高いテノールの声」それがぼくの正義だったんですが、IL BUONOでは逆にそれが非常に苦戦することになってしまって、どうやったらマイクにもっと声が乗るんだろう?みたいなことが、特に大変です。それとIL BUONOは3人なので、THE LEGENDの時より人数が少なくなった分、より一人ひとりのハーモニー作りに負荷がかかって難しくなりましたね。3人しかいないから30%ずつ出せば良いという訳にはいかないので。つまり3人ともかなり集中しないと、納得できるハーモニーが出せないんです。だからTHE LEGENDの時よりも、ハーモニーの作り方がさらに難解になりました。高度な技術が要求されるということです。

ぼくは、クラシカル・クロスオーバーというジャンルやその言葉を

理解してもらわなくても良いと思っています。

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―今年デビューしたばかりのグループですが、IL BUONOが目指す音楽や世界観みたいなものがあれば、教えてください。

そもそも、ぼくたちの音楽ジャンルである「クラシカル・クロスオーバー」っていうジャンルは、その言葉すら知らない、わからないという人がほとんどです。説明が難しいので「オペラです!」って言ってしまうと、もっと誤解されてしまうところもありますし。クラシックの発声の技術とマイク技術との融合というか、アカデミックな声楽やオペラの世界だけでは伝え切れない表現を、より多くの人に伝えていきたい、という気持ちがぼくには強くあります。

もっと言うと、ぼくは、クラシカル・クロスオーバーというジャンルやその言葉を、理解してもらわなくても良いと思っています。結果、ぼくらが活動して、ぼくたちのやりたいことが達成できたら、自ずとクラシカル・クロスオーバーも周知されることになると思うので、それで良いと思っています。世間一般的には、オペラ歌手といえば秋川雅史さんってなるのと同じです。そんな存在になりたいです。

―最後に、ありきたりな質問ですが、どんな歌を歌っていきたいですか?

自分の歌を聴いて、喜んでもらえること。それがぼくにとって一番の幸せなんです。だから、どんな歌を歌いたいかではなく、どんな歌だったら喜んでもらえるか? お客さんに幸せになってもらえるか? ぼくにとってはそれが一番の問題です。そして、ぼく自身としては、とにかく歌の技術をもっと、もっと極めていきたいです。

それは、ずっと、ずっと、です。

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